一つの学びがひと段落
8年くらい前の話になりますが、私は当初、ヒプノセラピスト志望でした。
ヒプノセラピー…
催眠療法のこと。催眠状態に入って自分の潜在意識と向き合い、問題の解決や癒しを目指す療法。
ヒプノセラピストを目指そうと思ったのは、ヒプノセラピーに私自身が救われた経験があるからですが、最初に師事した先生はスピリチュアル寄りすぎたことをはじめ、色々なものが合わずに離れることに。
しかし、意識的に潜在意識を向き合うこと、潜在意識の書き換えること、脳科学的な側面から見たヒプノセラピーや集合意識…には非常に興味があり、実は1年ほど前からつい最近まで別の先生に師事させていただいておりました。(そして、先日、無事に一旦終了しました)
何を学ぶにしても、話を聞くにしても、この「誰に?」という点は非常に重要ですね。
違和感を感じる場所、人の中に長く身を置くと、自分の持つ心の声や直感、センスが鈍っていくので、自分が納得できる場や人を選ぶことにはこだわっています。
けれど、自分も誰かを傷付けている。
そして、改めて勉強を始め、実践を積むことで、改めて気付くことも。
私自身も実習の中でヒプノセラピーを何度も受けるのですが、
自分のトラウマのことを話す。傷付けられたことを話す。傷付けてしまった自分の心を話す。
のです。
もちろん、本来のセラピーでは「自分の時間」「自分の話だけをしてよい場」を買ってるので、それが正解なのですが、
自分が傷付けられたり、嫌な思いをしたことはよく覚えている。
けれど、自分も誰かを傷付けているし、意図しなかったとしても、誰かにひどいトラウマを追わせていることもあるだろう。
という概念も、より明確に共存するようになりました。
(セラピスト向きではないと方々で言われていますが、勉強のために師事しております笑)
禍福は糾える縄の如し。人のご縁もあざなえる縄の如し。
もちろん、癒されるべきは癒されるよう願い、心の穏やかさを求める人はそうあるようにと願うのですが、自分の傷や痛みが落ち着いた後には、「私も誰かを傷付け、誰かの夢を遮り、誰かの心を枯らせたかもしれない」という観点もあっていいと思っています。
そして、大概の場合には明確な悪意や敵意などないし、それは自分も同じこと。
お互いに影響を与え合い、それぞれに事情があり、自分だけが被害者であることもそうそうない(事件や事故によって、一方的に被害を被る場合もあります)。
誰にでも虫の居所の悪い日はあるし、不機嫌な日も疲れた日もある。
禍福は糾える縄の如し。人のご縁もあざなえる縄の如し。
よって、まずは自分が癒され、満たされ、落ち着くことが第一とした上で(そのこと自体が誰かの幸せや安心に繋がることも多々あります)、忘れてしまったことにも謝り、それぞれがそれぞれに幸せであることを祈ることも、陰徳に繋がると思うこの頃です。
そういったスケールで自身を省みると、滞りとその原因(自分の心の中にある)が見えてくることがあります。