それが出来て困ることはない
最近、娘と話すことの一つに「代替案の提示」というものがあります。
生きていく中では「勉強は疲れた」「このお料理は好きじゃない」「もっと沢山遊びたい」「もっと寝たい」…と思うことなど山ほどあるでしょうが、ただ「イヤだ」「やりたくない」「だって…」と言い続けることでのメリットは存外少ないもの。
それを感じることや、内なる声をキャッチできることは素晴らしいのですが、それをそのまま出せばいいかというと、ちょっと違う。
それを元に「建設的な思考」や「建設的な話し合い」が出来ることで解決していくことも、多々あると思うのです。
心穏やかな毎日を
よって、9歳児には早い部分もあるのを承知で、「疲れたから今は勉強をしたくない」のであれば、「いつしようと思っているのか」を伝える。「だから、今はしたくない。しない」と伝える。
「勉強(やらなくてはならないこと)をしたくない」のであれば、「どうやったら楽しめるようになるか」を考える。あるいは、「どう考えていけばいいのか」を相談する。どうしても無理なら、それもまた伝えなければ、検討違いなアドバイスや責めを負うことになる。
「どうしてもこのお料理は好きじゃない」のであれば、そう伝える。あるいは「他のメニューだと嬉しい」と伝える。あるいは他の献立は完食する…
…ということを、ちょこちょこと伝えています。
これって正直面倒くさいですし、親しき中であればあるほど「察してくれよ、対応してくれよ」であり、実際に察して対応してしまう部分でもあるのですが、「NOというのなら代替案を」「察して、ではなく、伝わるように伝える」ことも必要かと思うのです。
何より、言語化の練習って意識しないとなかなかしないものですし、ある日突然出来るようになるものでもない。
相手が勝手に「察して対応してくれた(る)」というのは、棚から牡丹餅的ラッキーに感じていた方が心穏やかに過ごせる気がする毎日です。