私個人の変化のお話
長らく『漫画を卒業できない大人』だったのですが、ふとしたことから自然と卒業に至りました。
といっても、いくつかの漫画は引き続き読みますが、漫画に対して無制限に無尽蔵に課金するようなことはもうない気がしております。
ただ、これは漫画家さんや漫画をお仕事にされている方、漫画好きな方をどうこう言っているのではなく、私個人の変化のお話だと思って読んでください。
私はなぜ、他人の物語を読んでいるんだろう。
というのも、ある時に
私はなぜ、他人の物語を読んでいるんだろう。
私はなぜ、他人の物語に時間を費やしているんだろう。
私の物語(今/実人生)はどこいった?
と感じてしまったのです。
何の前触れもなく、何があったわけでもなく、唐突に、決定的に。
お仕事や家事をしていない、私個人の貴重な時間、集中力、エネルギーの消費先が『なぜ、他人の物語なのだろう』という思いは、一度心の中に芽生えると一気に細部にまで広がり、35兆個とも60兆個とも言われる細胞たちまでざわめきつくよう。
結果、パタッと漫画に伸びる手が止まり、課金も終わりました。
あの時間、お金を無駄だとは一切思いませんし、そういった無駄や消えモノと戯れられるのは、今ここが平和な証拠。
けれど、袂を分かつ瞬間は突然にやってきました。
私の物語(実人生)におけること
とはいえ、ものの本に
みんな何かしらに依存している。依存しなければ生きられない。
子、仕事、金、恋愛、自分の夢、ギャンブル、お酒、慈善事業…何かに心を預けなければ生きられない。
というような旨の言葉があったことを記憶しています。
そして、その感覚はなんだか分かるのです。
私たちは意識的にも無意識的にも、常に何かを気にしているし、何かを目指しているし、何かを考え続けている。全くの”無”でいることは難しいし、無(真空)を体験したとしても、いずれまた何かを探しだす。
であれば、それは他人の物語ではなく「私の物語(実人生)におけること」「私を幸せにすること」に時間を費やし、エネルギーを費やし、命を懸けたいと思う所存です。
あらゆるものは早くもなく、遅くもなく、必然のタイミングでやってくると言われますが、だとすれば、私にとっての漫画の卒業のタイミングは今だったのでしょうね。
そして、これは誰の元にもやってくる事だと思います。
そして、その時には抗ぬようにご注意を。
※これからも本や漫画は読みます。が、『卒業できない大人』から卒業した自覚があります。