ポテサラ論争
少し前に、TVやネットで「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」という論争がありました。
発端はこちらのツイートですが、
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」の声に驚いて振り向くと、惣菜コーナーで高齢の男性と、幼児連れの女性。男性はサッサと立ち去ったけど、女性は惣菜パックを手にして俯いたまま。
私は咄嗟に娘を連れて、女性の目の前でポテトサラダ買った。2パックも買った。大丈夫ですよと念じながら。— みつばち (@mitsu_bachi_bee) July 7, 2020
もちろん色々な考え方があり、それ自体は否定されるべきではないと思うのですが、何にしても一方的かつ暴力的な押し付けは稚拙でしかない…と感じた次第です。また、個人的な感情でいうと「母親なら」にも引っかかる。
「やったことのない人/今後もやる予定のない人ほど口を出すものだな」と認識したことも覚えています。
けれど同時に、「男なら」「父親だったら」という言葉/立場の責任やレッテルに苦しみ続けた男性陣の長く暗い歴史も感じることにも。きっと私もどこかで同じようなことを言い、気付かないところで誰かを深く傷つけた(傷つけている)のだろうと思うので、この場を借りて謝罪いたいます。
自分の中の思い込みや概念を疑う作業というのは非常に知的であり、巧妙に隠されているので、それを知覚するのはなかなか難しいのですよ。誰にとっても。
やったことのない人/今後もやる予定のない人ほど口を出す
しかし、「やったことのない人/今後もやる予定のない人ほど口を出すもの」というのは、何にしてもよく見受けられるパターンだと思っています。
起業にしても同様で、成功にも失敗にも、逡巡にも挫折にも休憩にも、実際にやったことのある人の方が寛容であるように思い、やったことのない人/今後もやる予定のない人ほど「世の中を知らないあなたのため」という大義名分を掲げながら、今までの世界に留まるように誘導してくる…というのは、よく聞く話。
私も実際、呪いのようなアドバイスや助言を前に、「責任がないからこそ、強烈な言葉を発しながらも言い逃げ出来てしまうのだろうか…」「私が悶々しても、この人は言ったこと自体を忘れるんだろうな」と、相手をまじまじを考察してしまったことがあります。
しかし、私たちは思うよりも賢く強い。
けれど、相手が誰であれ、「私は私、あなたはあなた」「それぞれに楽しみ、それぞれに幸せでいましょう」「人生が重なることがあれば、その時には楽しく過ごしたいですね」というのが、私の基本的なスタンスです。
これは両親や子供においても、基本は同様。
私の父は昨日、コロナワクチンを接種しましたが(母は7月だそうです)、80歳を超えた持病持ちである父が接種するか否かを決めるのは、やはり父。例え命の危険があろうとも、接種するかしないかを決められるのは、本人しかいないと思っています。そして、それによる結果も甘んじて受け入れるべきだと。
世の中には様々な価値観や考え方があり、その中には信じ難い/受け入れがたいと思うものもありますが、しかし、それさえ別個のもの。言論にも思想にも自由がある。
故に、否定したり嗤ってくる人(状況)と出逢った際には、中島みゆきの『ファイト』を脳内再生しています。
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
ここでの「ファイト」は”応援”という意味ではなく、「戦え」しかも「自分と」という意味だとか。そして、「戦い方」は多種多様。
どんな生き物も生命や尊厳を脅かされたら全力で牙を向きますが、同時に、可愛らしく、真正面から食らわず、柔らかく、笑顔で、笑声で…という手立てもあるのです。
つまり、私たちは思うよりも賢く強い♡