思うよりも時間がある
最近、ふと思うことがあります。
それは、「そこそこには忙しいけれど、それにしても<やりたいこと>や<未来のこと>を考える時間がある。なぜだろう?」ということ。
私も仕事をしている身なので、メールや連絡、決定事項に追われる毎日です。体調が悪くても、ひどく落ち込んでいても、やるべきことはやらなくてはならないし、気分や感情に任せた判断は出来ません。
とはいえ、一日の全てがそういった時間かと言えばそうではなく、色々と考える時間がある。自分会議をする時間がある。手帳を作る時間がある。HPを触る時間がある。勉強する時間がある。瞑想する時間がある。
「時間を捻出せねば」と躍起になっていた時よりも、少しだけ「ある」。
そして、ふと思うこと
そんな中、昨日は実母が我が家に遊びにきてくれました。久しぶりの再会にして、年内最後の再会。来年の目途は立たず、次いつ会えるかも分からない中での再会。
娘は小さい頃からおばあちゃんっ子だったため、終始、母にべったりしていました。
また、昨日は母に我が家のクリスマスツリーのオーナメントの飾り付けをお願いしました。
オーナメントの飾り付けなど誰にも(私にも)出来るのですが、だからこそセンスが出るし、美意識の程度が出る。
昨年、ふとお願いした母の飾り付けが完璧すぎたので、母にお願いすることが定例となりました。案の定、完璧な美しさのツリーが完成し、うっとり。
そして、思うのです。
「クリスマスツリー自体は主人と娘が出してくれて、オーナメントの飾り付けは母と娘がしてくれた。私、何もしてない」と。
「結果、何もしていない」という事実
思えば、クリスマスツリーだけでなく、
・水回りの掃除は主人がしてくれる(私は苦手。ありがたや)
・光熱費や細かい生活費の数字関係は主人がしてくれる(私は苦手。ありがたや)
・旅先の選定や各種予約・調整は主人がしてくれる(私は苦手。ありがたや)
・娘にトイレをマスターさせてくれたのは、保育園の先生方(気付けばできていた。ありがたや)
・娘にお箸の使い方をマスターさせてくれたのは、保育園の先生方(気付けばできていた。ありがたや)
・学校の細々したことが出来ないので、娘が自分で気を付けてくれる(ありがたや)
・私が苦手そうなことは、娘が自分でまずトライしてくれる(すごいね)
・撮影の際にはカメラマンさん方がステキに切り取ってくれる(ありがたや)
…など、家族や周囲の方々に助けられ、私自身は大して何もしていないことに気付いてしまいました。
洗濯や掃除、炊事はしますが、あくまで「普通のレベル」に留まり、体調如何によっては「しない」ので、日常における自分の仕事のなさ(軽さ)に恐れをなすほどです。
得意な人に任せ、感謝する
つまり、
「私が苦手なことは、得意な人/出来る人がしてくれる」
「私自身は普通であっても、プロがプロたる力量で補ってくれる」
と本気で思っている節があるのですが、その前段階として、
「私が苦手なことは、得意な人/出来る人に任せ、感謝する」
「私が出来ることでも、もっと得意な人/出来る人がいるなら任せ、感謝する」
「そっちの方が、良いリズムで循環しやすい」
「私は私が出来ること、得意なことをして、循環の輪の一員になる」
という概念があります。
これは恐らく、自力で頑張り、頑張り、頑張ってみた結果、それでもあるレベルにしか達せなかった絶望感がそうさせたのだと思います。
あるいは、自分で全てをやろうとして、ピリピリして、イライラした結果、確かにできたものの誰も幸せにしなかった過去がそうさせたのだと思います。
凹を埋める努力もしますが、他者の凸に頼り、感謝の気持ちをお伝えするのも、一つの循環。自分で出来ることも素晴らしいですが、それが至上というわけでもない。
お互いに負担でないのなら、そういったやり方もあると思います。
循環の輪を廻すもの
しかし、この循環は生み出し、育み、感謝し、時に振り返って手入れするものだと思っています。
それを怠ればいつでもその輪は止まり、不調和が生まれます。その反対もまた然り。タイムラグがあったとしても、必ず循環は育まれます。
そして、頼むにしても「相手の得意なこと」「相手の好きなこと」「相手が苦にしないこと」が基本。
それを肝に銘じ、多くの方に助けていただきながら、今日も自分会議をし、手帳を作り、HPを触り、勉強し、瞑想します。
いただきものの命であると同時に、いただきものの時間の上に成り立つ毎日。ありがたや。