何者でもないコンプレックス
私の周りには、
・自分の生きる道はこれ!というものがある方
・ある世界の第一人者
・年商〇〇億円を超す経営者
・重要無形文化財総合指定保持者
…など、一つの道を極めている方、その上で更に極めようとされる方が多くおります。
その姿に尊敬と畏敬の念を抱くと同時に、しかし、自分自身に対して『何者でもないコンプレックス』というものがありました。
良い大人であるのに「私の生きる道は〇〇です」「人生をかけて〇〇をします」というものが一つもなく、何も積み上げていない(ように感じる)自分自身に不安を覚えたのです。
内省と開放
かといって、無理に何かを設定し、そこに猛進したいか?というと、全く違う。
〇〇さんみたいになりたい!もない。〇〇さんがやったんだから、私だって…!もない。
それ以上に、「自分以外のもの」になろうとするとアレルギーが出たり、現実や体調、思考に歪みが生じるのが、これまでの人生でも顕著…
結果、「何者でもないコンプレックス」「何物にもなれない未分化感」は抱きつつも、「悩んだところで仕方がない」「いつか何かに出逢うかも」「もしかしたら既に出逢っているのかも」「それらがなくても、私は幸せだろうな」「何にせよ、目の前のことを丁寧にこなしていこう」という結論に至り、悩むのやめ、負い目を感じることをやめた(放棄した)のですが、生きている中ではそんな不毛なことに振り回される時期もあるものですね。
暇だったのかもしれません。
解決策
しかし、「何者でもないコンプレックス」には、「何者かである方が優れている」「何者かになるべし」「何者かにならねばならない」といった概念が見て取れます。
フラットな時であれば「何者かになってもいいし、ならなくてもいい」し、何事においても「好きな方を選べばいい」「マルチな人間はマルチに生きてもいい」「どの結果もまた素晴らしい」という考えに収まるのですが、しかし、狭い視野で一点を見つめている時というのは、善悪、白黒、優劣で物事を決めつけたくなるのです。
きっと、思考を放棄しているのですね。
私は寝不足時、疲れている時、余裕がない時…にそういった状態になりやすいので、それに気付いたら「その間には何も決めない」「まず寝る」をルールとしています。
どうでもいいことを信じてしまわぬように、疲れから生まれただけでの発想に囚われないように、やっぱり適度に休み、寝よう。それに限ります。
考え、精査するのは、その後でも遅くはないのです。
ふと手にしたタントラ
話は逸れるようで逸れませんが、ふと手にしたタントラについての本に
今のままのあなたを信頼する。あなたの肉体を信頼する。あなたの感性を信頼する。あたなのエネルギーを信頼する。普通の男性と女性に信を置く。
という一文があり、ひどく感動したのを覚えています。
やはりインサイドアウト。それが良い影響力を持てないような時には、寝るに限る。