選別する玄関
先日、ある富豪のお宅の玄関に強い衝撃を受けました。
某マンションの最上階の一室なのですが、玄関には美しいシャンデリア、正面には高級かつ上質なのが誰の目にも明らかな、見事な細工が施された迫力満点なお皿と、それを取り巻く装飾たち。
一瞬でそこがマンションであること、現世であること、どなたかの日常風景であることを忘れ、見惚れてしまいました。正に、美麗。
しかし同時に、私は何か殴られたような衝撃を受けました。
ただ美しいだけでなく、来客をもてなすための贅ではなく、「邪なもの、魔に関連するもの、低級なもの、ノイズを一切家に入れない」という覚悟や、「この波動に堪えられないものは一切足を踏むことが出来ない」という意思を感じたのです。
この家の主は、たとえ来客が圧倒されたとしても、気圧されたとしても、緊張したとしても、ここを搔い潜り、堪え得る者としかお付き合いする気がないのだなと、直感的に感じたのです。
その美しく迫力のある玄関は、「来客に最大限の敬意を示す”おもてなし”であると共に、来る人を選ぶ門」でもありました。(そして、ご本人に上記の感想をお伝えしたところ、その通り!とお墨付きをいただきました)
その場の空気や流れを変えるだけのチカラがある
そして、「私は既にこの感覚を知っている」と記憶を遡るのですが、それはかつて読んだ甲子園関連の書物の中でのこと。
「球児たちの大きな声での挨拶、丁寧さ、はきはきとした受け答えの全ては、礼節でもあると同時に、攻撃」とありました。
確かに、大きな声で一糸乱れぬ挨拶をし、キビキビと礼儀正しく受け答えすることは、先制攻撃になる。時に暴力的なまでの正義を纏う。相手への威圧となり、威嚇になる。統率の取れた動き、よく通る声で、相手の闘志をへし折ることが出来る。相手の自信をくじくことが出来る。相手が積み上げてきたものを一蹴することが出来る。越え難い差を見せつけることが出来る。
もちろん、甲子園球児たちは相手へのリスペクトやスポーツマンシップに乗っ取った気持ちのよい心持ちだとは思うのですが、しかし、そういった一面も確かにあるのが事実。
甲子園でのブラスバンドの大音量での演奏や声援には、その場の空気や流れを変えるだけのチカラがあるのと同じように。
ここを通過出来たものだけが入れる
それを肌で体感した後、私は早速、花屋さんへ行きました。
これまでも香りのよい生花(主に、ユリ)を飾ることは習慣でしたが、私の目的は「家の人間が(主に私が)心地よく過ごせるため」。フレッシュな香りや姿が発するエネルギーは素敵なもの。故に、可愛らしく、爽やかで、優しげな組み合わせ/量/配置を好んでおりました。
しかし、今回からは若干配置を変え、邪なもの、魔に関連するもの、低級なもの、ノイズが玄関を通過できないよう、毅然とした量と配置を取ることに。
そして、ここを通過出来たものだけが入れるという事を、我が家の玄関の第一条件にしようと決めたのです。
その上での換気、白檀での浄化。お塩やお酒のお風呂、断捨離。
毎日を運営する中で出来る範囲の結界ですが、不思議なことに、既に空気が全く変わっています。
まずはこの感覚を、私自身に沁み込ませます。